コミュニケーションについての雑感-24
「憶測でものを言っちゃいけないよ」 
 


昨日これは現在(令和5年10月~令和6年3月)放送中のアニメ「薬屋のひとりごと」に出てくるセリフです。
事件などについて主人公が推理する場面でよく出てきます。

状況の中でまず先入観を捨てて、徹底的に観察をする。それをふまえた上であらゆる可能性を検討していく、というプロセスが割と丁寧に描かれていると思います。

この「憶測」の大きな要因になる「先入観」って人間にとって非常にやっかいであることはかなり昔から言われてきた事ですよね。
それこそ学問でいえば「認識論」とか「論理学」「哲学」・・・
でも「ことば」を使っている以上、どうしても先入観とか個々人の思い込み、言葉の意味の微妙なズレが排除されないということから、「数学」が発達したという側面もあります。ことばを排除し、すべて数式や図式であらわす。厳格な「定義」を大切にする、等々。


逆にいえば日常生活での「ことば」のやりとりなどは、それこそ同じ言葉であっても、個々人が感覚がべったりとくっつけている感情やイメージの違いによって、まるで違う意味が混在します。「齟齬」なんていったりもしますよね。

そうした受け止め方の違いをふまえていないと、コミュニケーションもちぐはくになる・・・ということをこのシリーズでは何度もとりあげてきたつもりです。


前回の「叙述の即した確かな読み」というのも、本来はこの「憶測でものを言っちゃいけないよ」が根底にあったことだと思うのですが、それが学校現場では、
「事実をふまえた後の、あらゆる可能性を検討することがダメ」
という方向にいっていまう場合が多かった、ということです。

学生時代の上原輝男先生による演習で「児童言語の研究」というのがありました。子ども達の言葉の記録をもとにして、その背景などを探っていく実践でした。その際にも上原先生は、事実をまずきちんと把握することを学生に対して何度も強調していました。

「そのやりとりのどこに発達段階や個人差が表れているのかをきちんち拾い上げる」

その上で、同じ言葉でもそえまでの成育歴や状況によってまるで違った意味合いになることが普通・・・だからあらゆる可能性を考えた上で、次にその中で可能性が高いのは・・・としぼりこんでいくわけです。

もちろん実際に子ども達とやりとりする際には瞬間的に反応してやりとりすることが多い・・・だからこそ、基礎トレーニングとして常に「人間のことば」についてありとあらゆる場面で考察を広げ、深めておく必要がある、ということです。

そうした「先入観」・・・「自分なりの受け止め方」「自分にとっての当たり前」を一旦オフにして受け止められるかがカギをにぎるわけですが、そうした姿勢がここ数十年の間にどんどん失われていると感じます。

「個人の自由」というもっともらしい言葉を都合よく使うことによって。


自分とは違う受け止め方を主張されると「そんなの自分の自由だ!」と主張するわけです。
でもそれは、他の人が同じようにそれぞれで受け止めたことの全否定でもあるわけですよね。

現代社会でそれが端的に現れているのが「いじめ」や「迷惑動画」だと思います。
当事者がどんなに悩んでいようと、迷惑行為によって甚大な被害が出ようと「軽い気持ちだった」「遊びのつもりだった」「そんなことでいちいちうるさく言うなよ」・・・・と、「自分は全く悪くない」「悪いのはいじめとか迷惑とか感じた方だ」という全く身勝手な屁理屈です。

自分はこういうつもりで言ったんだからその通りに受け止めない相手はおかしい

それこそ叙述に即した確かな読みの歪んだ形・・・・額面通りにうけとめる・・・ですね。

それが都合よくつかわれるから、社会全体でもおかしなことになっています。

・「大丈夫?」「平気です」・・・・でも実は全く大丈夫ではなかった
・「待った?」「ううん、今きたところ」・・・・本当はずっと待っていたんだけど

日常よくある光景ですが、口ではそういっているけど、本当は違うのかも・・・・という想像がはたらいたのが「思いやりのある社会」として特に日本人がやってきた生活なんですよね。でもそれが希薄になってきた。まるで日本人と初めて応対する外国人のような感覚になってきたから「字ずら通りに受け止めて当然」であり、本心とは逆のことを言っていた場合は

「きちんと気持ちを言わない方が悪い」

となってしまいます。

でも例えば「いじめを受けている子」なんかだと報復を恐れて真実を語れないというのはよくある話ですよね。
いじめアンケートだけで「いじめはない」と安心していたら実際には・・・というのは普通にあることです。
いじめ以外にも「言いたくても言えないから悩んでいる」という人は大勢いますよね。

あと周囲に心配をかけたくないから一生懸命に元気なふりをしている場合だってあります。
大きな災害でみんなが大変な状況になっていればいるほど、「自分は大丈夫」というのもふつうにみられますよね。
額面通りにとらえるだけでは限界があることはそうしたことを少しでも考えれば分かる事だと思います。

でもくりかえしますが、そういった陰に隠れている本音を察するのは非常に苦手になっている人が多いです。


これは発話する側の場合でも同じです。
自己主張が大事といわれていても、やっぱり今での日本の社会の中では本心をストレートに言う人間は嫌われることが多いです。
私は実際に確かめたわけではないですが、海外の場合は、相手の言い分もきちんと聞いて尊重する文化が背景にあっての自己主張だからきちんとコミュニケーションが成立しているように思うんですよね。

そんな海外でだって自己主張ばかりで異なる立場には耳もかさない、反対勢力は叩き潰すという人間は、やっぱり嫌われていますよね。自分の都合しか考えていませんから。そんな国家の指導的立場の人達が国際社会の中でどう思われているかも周知のことでしょう。


相手がどのように受け止めている可能性が高いのか、の基本は、やっぱり相手のことをよく観る、言葉の響きなどまでよく聞く、ということに尽きると思います。
ほんのわずかな気配をも見逃さない姿勢。
刑事ではないですから、疑いの姿勢ではなく、表に出てこない部分を察してあげようという思いやりの気持ちでですよ。

ドラマなどでよく出てくる「目が笑ってない」なんていうことの気付きもそうです。


コロナによって、そういう基礎体験が世界中で絶対的に不足した・・・・特に本音と建て前 という社会でやってきた日本社会の中で、コロナの影響を受けた人達は、ますますコミュニケーションに対して苦手意識を感じるでしょうね。

自分は身勝手にものを言っているつもりは全くないのに、何故か相手とうまくいかない。

憶測でものを言っているつもりはないのに、自分の中にいろんな視点がなくて、数すくないことだけで判断してものをいえば、それは結果として「憶測でものをいってばかりいる」と周囲には受け止められてしまいます。


教育や子育てや心のケアなどに携わる人達は、世間で指摘されている以上にコミュニケーションの問題に悩んでいる・・・・
身勝手な人たちの方が悩まないかもしれません。最初からズレを気にしていませんから。悪いのは全て相手のせいにしていますから。

でも、他人との関係に誠実であろうという気持ちの人達ほど、うまくやりとりできない原因をあれこれ考えるための観点そのものが会得できていないために、自分はコミュ障なのではないかとどんどん悩んでしまっている・・・そんな人達に必要な経験の補充をきちんと確保してあげるのが急務だと思います。

☆ここで前にとりあげた話題を再度確認します。
私は気持ちが分かる、伝えられるというのが100%そのままできるとは思っていません。
そもそも本質的なこと、目にはみえない心とか無意識ほど、言葉には出来ないという前提にたっていますから。

参考コミュニケーション雑感
 5、「他人の気持ちが分かる」って可能?

 7,葬送のフリーレンより 「大事なのは姿勢」

だから100%相手の気持ちがわからない、100%自分の思いが伝わらないということでコミュ障ではないかと悩む必要はないと思っています。
ただ大切なのは、誠意をもって相手と向かい合っているかどうか。その誠意がきちんとあれば、分かる人には多少のすれ違いや不十分さがあってもわかってもらえると思います。


明日は「アニメ」なども生きた教材として活用、ということを書きたいと思っています。